富岡製糸場と絹産業遺産群

岡野雅枝×松井敏也

 

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本の世界遺産としては最も新しく,本年6月に正式登録されました。4つの構成資産のメインとなる富岡製糸場の保存活用に携わる岡野雅枝さん(富岡市富岡製糸場総合研究センター学芸員,本学世界遺産専攻1期生)と,製糸場建物の保存に保存科学的見地から携わる松井敏也准教授に,お話を伺いました。

 


世界遺産登録までの道のり

 世界遺産登録を目指すプロジェクトが立ち上がったのは10年以上も前のことです。世界遺産としてふさわしい資産であるという専門家のバックアップを得て,その価値をしっかり守って後世に伝えようという趣旨でスタートしました。

 富岡製糸場は1987年まで操業していました。そのため地元の人々にとっては「近所の工場」であり,文化財という認識はありませんでした。ですから,当初の反応は「あり得ない」。プロジェクトの第一歩は,「身近な親しみ」から「地域の誇り」への意識改革でした。解説イベントや展示会の開催など,様々な取り組みを通して徐々に理解が広がり,最終的には誰もが世界遺産登録を確信するようになりました。同時に,国内の世界遺産登録の中から政府の推薦を得なくてはなりません。文化遺産の推薦は年に1件だけ。まず国内法に基づいて史跡・重要文化財の指定を受け,文化財としての位置づけを確立した上で,近年世界遺産登録のカギとなってきた保護管理計画を作成しました。これには,文化財の維持・管理から,将来の活用プランまでが含まれます。行政・専門家・地元民,たくさんの関係者の努力がようやく実りました。


 

文化財としての真価

 現地を訪れると,まず壮大な煉瓦造りの建物に圧倒されます。木の骨組と煉瓦造りの壁,中央に柱を立てずに広い空間を確保する工法など,建築物としての素晴らしさに驚きますが,富岡製糸場の最大の価値は,明治期以降の日本の近代化をけん引した製糸業において,大規模で本格的なものとしては初めて西欧から導入された先端の器械化設備であること,それがもたらした影響,すなわち「産業遺産」としての重要性です。ほぼ創業当時のまま残っている木骨煉瓦造の建物や操業停止時のまま保存されている自動操糸機が物語る,日本近代製糸業の始まりと絹産業の発展,技術革新,世界との交流,そういった養蚕・製糸業の歴史的な営みそのものが,守るべき普遍的価値として認められたのです。日本で近代産業遺産が世界遺産に登録された最初の事例です。

 また,周辺エリアにも歴史の名残があります。製糸場の門外に,土産物店に混じって点在する古びた商店や飲食店。工員たちが利用していた店が今も営業を続けており,独特の雰囲気を醸し出しています。最盛期は夜の賑わいも相当なものだったといいます。このような,当時の活気や暮らしぶりをうかがわせる町並みにも歴史的な価値があります。


 

保存・修復活動

 4月末にイコモスから世界遺産登録の勧告を受けた直後から,来場者は急増しました。多くて3千人程度だった1日あたりの来場者数は今では8千人を超えることもあります。見学の団体予約も夏の時点で既に年内の分はほぼ満杯。うれしいこととはいえ,わずか数カ月の間に,そのことによる施設への影響が現れています。

 建物は,文化財に限らず,本来の目的と異なる使い方をすると,さまざまなストレスを受けます。例えば,工場や倉庫として建てられたところに,大勢の人が出入りしたり,空調設備や展示物などが設置されると,温度や湿度,空気の流れ,床や壁にかかる荷重,振動,人から発生するガスなど,環境条件が変化します。これが,もともとの設計が許容できる範囲を越えてしまうと,思わぬダメージが生じるのです。

 製糸場の礎石や煉瓦に出始めている劣化は,自然の経年変化とは明らかに異なるものです。しかしその原因はまだ特定されていません。間違った対応はダメージを広げることもあり,材料や手法の選定など,修復には細心の注意が必要です。劣化の因果関係を突き止め,適切な処置を施すには,科学的なアプローチが不可欠。施設内の各所で,空気の成分や煉瓦内部の水分量などをモニタリングし,できるだけ文化財そのものには手を加えずに,環境を制御して劣化を抑える方策を探ります。

 



本当の見どころ

 富岡製糸場の整備活用計画は始まったばかりです。現状では,修繕などが必要でまだ公開されていない施設や,急激な来場者の増加に対応しきれていない部分もありますが,この先約30年をかけて,継続的に保存修復を行いつつ,敷地全体をいくつかのゾーンに分け,見学,体験,研究,交流など,観光客だけでなく地元の人々が活用できる場所として,持続可能な開発を進めていく計画です。

 多くの人は一度見学すれば十分だと考えるでしょう。しかし二度,三度と訪れると,文化財を堪能するだけでなく,30年計画の進捗状況をみる楽しみも増えます。その時々に公開されている状況は,必ずしも来場者の満足のいくものではないかもしれませんが,そこに至るまでのプロセスや,施設を保護するために現地で地道な活動をしている多くの人たちがいること,そういうところにまで思いを馳せることが,世界遺産の精神に触れることでもあります。


特集〔筑波大学と世界遺産〕 Tsukuba Communicationsvol.25, 2014